喫茶店にて


萩原朔太郎

先日大阪の知人が訪ねて来たので、銀座の相当な喫茶店へ案内した。
学生のすくない大阪には、本格的の喫茶店がなく、珍らしい土産話と思つたからである。
果して知人は珍らしがり、次のやうな感想を述べた。
先程から観察して居ると、僅か一杯の紅茶を飲んで、半時間もぼんやり坐つてる人が沢山居る。
一体彼等は何を考へてゐるのだらうと。
一分間の閑も惜しく、タイムイズマネーで忙がしく市中を馳け廻つてる大阪人が、かうした東京の喫茶店風景を見て、いかにも閑人の寄り集りのやうに思ひ、むしろ不可思議に思ふのは当然である。
私もさう言はれて、初めて喫茶店の客が「何を考へて居るのだらう」と考へて見た。
おそらく彼等は、何も考へては居ないのだらう。
と言つて疲労を休める為に、休息してゐるといふわけでもない。
つまり彼等は、綺麗な小娘や善い音楽を背景にして、都会生活の気分や閑散を楽しんでるのだ。
これが即ち文化の余裕といふものであり、昔の日本の江戸や、今の仏蘭西の巴里などで、この種の閑人倶楽部が市中の至る所に設備されてるのは、文化が長い伝統によつて、余裕性を多分にもつてる証左である。
武林無想庵氏の話によると、この余裕性をもたない都市は、世界で紐育と東京だけださうだが、それでもまだ喫茶店があるだけ、東京の方が大阪よりましかも知れない。
ニイチエの説によると、絶えず働くと言ふことは、賤しく俗悪の趣味であり、人に文化的情操のない証左であるが、今の日本のやうな新開国では、絶えず働くことが強要され、到底閑散の気分などは楽しめない。
巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮してゐるなんてことは、話に聞くだけでも贅沢至極のことである。
昔の江戸時代の日本人は、理髪店で浮世話や将棋をしながら、殆んど丸一日を暮して居た。
文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生れ、生活がのんびりとして暮しよくなる。
それが即ち「太平の世」といふものである。
今の日本は、太平の世を去る事あまりに遠い。
昔の江戸時代には帰らないでも、せめて巴里かロンドン位の程度にまで、余裕のある閑散の生活環境を作りたい。

底本:

「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
1991(平成3)年5月25日第1刷発行

出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/509_21645.html